Mrs. GREEN APPLEがNHK「18祭」のために書き下ろした『ダーリン』は、18歳世代の“本音”に寄り添った楽曲。
歌詞に登場する「誰かの私でありたかった」「私の私で居てもいいの?」という言葉には、誰かに必要とされたい気持ちや、自分らしさに迷うリアルな心情が表れているように思えます。
この記事では、そんな歌詞に込められた想いを、背景とあわせて筆者なりに考えてみました。
あくまで個人的な解釈ですが、共感や気づきのきっかけになればうれしいです。
『ダーリン』歌詞考察:誰かの「私」であることと、自分の「私」であることの狭間で
Mrs. GREEN APPLEがNHK「18祭」のために書き下ろした『ダーリン』は、18歳世代の「本音」をすくい取るようにして紡がれた楽曲です。
歌詞全体を通して見えてくるのは、「自分らしさ」と「誰かに認められたい思い」の間で揺れる若者の心の叫び。特に以下の2つのフレーズが、楽曲の核心を鋭く突いています。
◆「誰かの私でありたかった」──承認欲求と孤独の交差点
この一行には、痛切なまでの承認欲求と、自分の価値を他人に見出そうとする苦しみがにじみ出ています。
「誰かの私」という言葉には、単なる恋愛感情だけではなく、「誰かに必要とされたい」「誰かの大切な存在でいたい」という、普遍的な人間の欲求が込められています。
しかし同時に、それは「他者の評価に依存するアイデンティティ」であり、自分の輪郭が曖昧になっていく危うさも孕んでいます。
これは、SNS世代の若者たちが感じやすい「承認の飢え」とも重なります。フォロワー数や「いいね」が、自分の価値の尺度になってしまう時代。
「誰かの私でありたかった」という切実な願いの裏には、”他者から見た自分”を生きることでしか安心できないという孤独が潜んでいるのです。
◆「限りある世の中のせいで狂ってる」──自由の中の不自由さ
このフレーズは、今を生きる若者の「閉塞感」をストレートに表現しています。
「限りある」という言葉には、時間・資源・可能性の有限性が暗示されます。受験や就職、将来の選択──何かを決めなければならない年齢の彼らにとって、「選択肢があること」はむしろ「選ばなければならないというプレッシャー」として作用します。
無限に見える世界の中で、自分に割り当てられた時間はあまりに短く、選択を誤ることが恐ろしくて身動きが取れない。
その焦りが「狂ってる」という強い語調で吐き出されているのです。
この一節からは、現代社会が「可能性を与えながら、同時にそれに押し潰されそうにさせている」ことへの皮肉が読み取れます。
◆全体を通して──“私”という存在の模索
歌詞では、「私」「僕」と一人称が行き来し、語り手が固定されていないのが特徴的です。
この不安定さこそが、アイデンティティの揺らぎを象徴しているように感じられます。
- 「私だけの愛が欲しい」
- 「自分を好きで居たい」
- 「私の私で居てもいいの?」
これらの言葉は、他人と比べたり、期待に応えようとしたりしてしまう中で、「本当の私」とは何かを模索する心の声です。
最終的に歌詞は、「私の私で居てもいいの?」という問いかけで締めくくられます。これは、“他人の期待する自分”ではなく、“自分が自分であること”を肯定できるようになりたいという希望の兆しとも受け取れます。
結びに:この曲が語る「18歳の本音」
『ダーリン』は、Mrs. GREEN APPLEから18歳世代へのエールであり、共感であり、共闘の詩です。
「誰かの私でありたかった」と願いながら、「私の私で居てもいいのか」と問いかける彼らの声は、誰もが通る“自分探し”の通過点であり、決して弱さではありません。
この楽曲は、そうした揺れや迷いに「そのままでいいよ」と寄り添い、「ひとりにしないでよね」と共鳴する、音楽という形の救いなのだと思います。
※この記事の内容は、あくまで筆者自身の感じたこと・解釈にすぎません。一つの見方として、参考にしていただけたら嬉しいです。